カボチャの歴史 のバックアップ(No.1)

 現在、各地で栽培されるカボチャ類がセイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャの主に3種であることは植物としての「カボチャ」のページで述べた。
人類がカボチャを栽培した歴史は古く、南アメリカのペルーで紀元前4000 - 3000年頃の出土品、メキシコでは紀元前1440年の出土品がそれぞれ発見されているのがその証拠であるという。
ここからは、我が国におけるそれら3種のたどった歴史について述べたいと思う。


 まず、我が国における最古のカボチャは「ニホンカボチャ」である。「日本」という名を冠しているが、それはあくまでも「日本で最初の」という意味で、日本原産ではない。
時期でいうと室町後期の「南蛮貿易」の折に、ポルトガル船がこの「ニホンカボチャ」を持ち込み、豊後国(大分県)の領主・大友義鎮(宗麟)に献上されたものが始まりである。その証拠として、江戸後期の農政学者・佐藤信淵の著した『草木六部耕種法』が挙げられる。同書によると、1541年(天文10年)ポルトガル船が豊後(大分県)に漂着し、1548年(天文17年)に領主・大友宗鱗の許可を得て貿易を始めたが、この際カボチャを献じたのが日本のカボチャの最初としている。そしてこれはシャム(タイ)の東のカンボチャ国で産したものであったため、「カボチャ」と呼ばれた。大友は有名なフランシスコ・ザビエルと交わり、キリスト教の洗礼をも受け、現在の大分市近くの日出の港を開港して貿易を行い、多くの作物の種子をも導入したといわれる。
一方、長崎港にはフィリピンのルソン島からカボチャの種子が入り、これはスペイン語あるいはポルトガル語のアボブラ(Abobra)からなまって「ボウブラ」と呼ばれた。大分県ではこれらの逸話にちなみ、古くから大型の菊座カボチャが「宗麟カボチャ」という名前で栽培されてきた。一時栽培が途絶えたが、地産地消の機運が高まる現在は栽培が復活し、細々とではあるが栽培が続けられている。なお、この「宗麟カボチャ」が福岡県に持ち込まれたのが「三毛門カボチャ」であるという。
 持ち込まれた当時、貿易港の長崎では現地に逗留する中国人をはじめとした外国人に食料として供出するため栽培されていたが、日本人はもっぱら観賞用としていた。というのも、当時の本草学や薬学の権威であった書物『本草綱目』*1には「有毒」であると記されていたためである。
 同じく佐藤信淵によれば、江戸時代前期の1680年ごろ(天和年間)には京都においても栽培が始まっている。それより10年以上前には東北地方で栽培が始まっていたが、京都の農民が現在の青森県に該当する地域で栽培されていた菊座型のカボチャの種子を持ち帰り、自宅の畑で栽培したところ、数年後に突然変異を起こしてひょうたん型になったという。これが「鹿ヶ谷南瓜」の始まりであるとされる。「鹿ヶ谷南瓜」のようにひょうたん型ないしはしもぶくれの棒状となる品種は、「外来のナス」という意味で「唐茄子」と呼ばれている。いつしかこの名称は関東地方で広く使われるようになり、落語の演目の一つの「唐茄子屋政談」がその例である。
 1697年(元禄10年)になると、農学者・宮崎安貞によって『農業全書』が出版され、その書物にはすでにカボチャの解説が簡易的な図版とともに登場しており、さらに同時期に本草学者・貝原益軒による生物百科事典『大和本草』にもカボチャに関する紹介がなされている。共通事項としては、いずれの書物においてもカボチャが「野菜」として受容されていることである。
 意外なことに、江戸での普及はかなり遅く、これらの出来事からおよそ半世紀後の1720年~40年ごろになって、「好事家の園芸植物」から「普段使いの野菜」へ昇格したという。
ただ、この説には異説もある。将軍・徳川家光の治世の1638年(寛永15年)、北品川東海寺の住職であった沢庵禅師が居木橋の名主・松原庄左衛門にちりめん状の果皮を持つカボチャを栽培させたのが嚆矢であるとする言い伝えもある。この逸話から、「江戸東京野菜」の一つである「居留木橋カボチャ」というカボチャが同地にて栽培されるようになったといわれる。
江戸後期になると日本全土に普段使いの野菜としてすっかり定着し、各地で魅力的な品種が次々と作出された。「カボチャ野郎」「南瓜に目鼻」「今年ゃ南瓜の当たり年」という俗な言い回しが生まれたのもこの頃である。


 幕末~明治ごろになると、「開国」により西洋の文物の導入が盛んになった。この頃になると西洋野菜の多くが日本に導入されており、「セイヨウカボチャ(クリカボチャ)」が現在の北海道~東北地方の一部で栽培されていた。当初は果皮がかなり硬くなる「ハッバード」という品種や、果肉の甘味が強い「デリシャス」という品種が栽培されていたが、これらの果実がかなり大きくなることと、また食味の当たりはずれが激しかった(年々多少の改善はあったが)ことがあり、救荒作物ないしは飼料用としての栽培こそあったが、いまだにニホンカボチャの方が主流であった。
やがて、品種改良を施した結果、大正期には関東地方以南でも栽培されるようになり、食味も改善された。1934年(昭和9年)には宮城県の農家が東京都立川市の農家から種子を貰い、栽培を重ねて形質を固定させた「芳香青皮栗」という品種が作出された。これと近い時期には東北地方で赤皮の品種が作出され、「打木赤皮甘栗」などの品種が誕生するきっかけとなっている。
 1944年2月、太平洋戦争の戦局が悪化したことを受け、東京都は各家庭にカボチャをはじめとした種子と栽培法の小冊子「何が何でもカボチャを作れ」を配布。最低一戸当たりにカボチャ一株を箱栽培や路傍栽培で育てるよう奨励を行った。供出や空襲による田畑の消失などが原因で米や麦などの主食が不足した太平洋戦争中および終戦直後の時代は、ニホンカボチャならびにセイヨウカボチャは貧困に喘いでいた日本人の食を、芋類と共に支えた。1947年(昭和20年)には「新土佐(土佐鉄かぶと)」という初のF1品種が作出された。これはニホンカボチャとセイヨウカボチャを交配させたもので、性質は強権で果実も多収だが、あくまでも食糧増産のために風味は重視されず、現在はほとんどが自家用か農協に卸すためにわずかに栽培される程度である。
しかし、この反動で戦前~終戦直後を生き抜いた人々の目には、カボチャがそうしたつらい記憶を思い起こさせる「起爆装置」として写ってしまい、高度成長期を迎えてもしばらくはカボチャの人気は回復しなかった。
そうしたカボチャであったが、1964年(昭和39年)になるとF1品種「えびす」が作出されてから、カボチャは人気者野菜としての立場を回復した。それ以降、セイヨウカボチャは「みやこ」「くりゆたか」などの優秀なF1品種が作出されていった。その一方で、食味の面でニホンカボチャよりセイヨウカボチャの方が好まれ、いつしかニホンカボチャの栽培は高級百貨店か料亭に卸すためのごくわずかな量しか栽培されなくなった。


 現在栽培種カボチャの中で最もニューフェイスなのが、「ペポカボチャ」と呼ばれる品種群である。わが国には明治初期に様々な西洋野菜とともに導入されたものの、あまり普及しなかった。明治中期になると観賞用の小型の果実をつける「オモチャカボチャ」が伝来し、園芸植物として栽培されていた。明治後期~大正頃になると、中国から「攪糸瓜」という品種が導入され、栽培が続けられるうちに「金糸瓜」または「そうめん南瓜」という名称で和食の素材として親しまれるようになった。
戦前~終戦直後には一時栽培が途絶えるが、高度成長期を経た1970年代後半からは欧米諸国からズッキーニを輸入し始め、ペポカボチャの存在がより一般に知られるようになった。1980年代後半からはわが国でも栽培が始まり、おおよそ40年もの間を経て「若い実を食べる珍しいカボチャ」から「普段使いの野菜」に立場を昇格させたのである。
 なお、ペポカボチャの渡来時期を「明治期」とする説は一般的によく知られており、筆者もこの説を一時採用したが、実際のところは再考の余地があるとみられる。というのも、1608年に豊臣秀頼により建築された京都北野天満宮の拝殿の蟇股部分に「金冬瓜」という楕円形のウリの彫り物がみられるほか、『本草図譜』に「きんとうぐわ」という名称で赤い瓜型のカボチャ類の図版がみられることがその根拠である。明治期~昭和期の植物学者・牧野富太郎は著作『牧野日本植物図鑑』において「キントウガ」という植物を紹介しており、その植物が「ペポカボチャの一種で、江戸時代に渡来した」ということを述べているのである。現在はキントウガは栽培されていないも同然なので、実際にそれがどういうものであるかをうかがい知ることは江戸期~昭和期の資料以外からは不可能であるが、前述の情報から見るに、「ペポカボチャ=江戸期渡来説」という認識の方がむしろ正しいだろう。
これとよく似た植物に、「阿古陀瓜(あこだうり)」が知られている。これは全体的にキントウガとよく似ているが、「阿古陀瓜」の果実は球形で、縦に溝が入る。兜やぼんぼりなどの工芸品において、丸みを帯びて縦溝が入り、さながらカボチャのような形状が「阿古陀」と呼ばれるのは、この「阿古陀瓜」が由来とされる。
平安時代後期に編纂された歌集『梁塵秘抄』には阿古陀瓜についての歌がある。参考資料として荒井源司著『梁塵秘抄評釈』(甲陽書房,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1358653)から引用する。


清太が作りし御園生}に 苦瓜*2、甘瓜*3のなれるかな紅南瓜(あこだうり) 千々}に枝させ生瓢(なりひさご) ものな&ruby(の){宣(ちゞ)びそ&ruby(えぐなすび){醶茄子(みそのふ)


この歌では「紅南瓜」という字を「あこだうり」と読ませているのが特徴的である。ただし、その時代にはまだカボチャの類は日本に導入されていないので、「阿古陀瓜」(紅南瓜)をカボチャ属とは別のウリ科の植物(マクワウリの一種)として見る向きもある。

コメント Edit


URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

閲覧者数 Edit

現在1
今日1
昨日0
合計50

*1 明代の本草学者・李時珍が著した生物百科事典
*2 現在のニガウリ(ゴーヤー)ではなくキュウリのことか。江戸時代までキュウリは苦みの強い野菜だった
*3 マクワウリのこと。

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS